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平安時代の「つわものどもが夢の後」後三年の役の歴史公園を訪ねて

 

 
☆秋田県美郷町滞在中に美郷町にある後三年の役記念公園に行きました。少し歴史の勉強をしましたので紹介させていただきます。
●「前九年の役」「後三年の役」といえば平安時代後期の奥州を舞台とした戦役である。
●平安時代、北東北では安部氏(奥羽山脈より東側)と清原氏(奥羽山脈より西側)が勢力を持っていた。
●前九年の役は、現在の岩手県を戦場とした戦いで、安部氏の滅亡によって幕を閉じる。
●後三年の役は、秋田県県南部を舞台とした、清原氏の内乱であった。
◎後三年の役は、横手市と美郷町を舞台とした戦いであった。
 
↑これは藤原清衡のブロンズ像です。
★藤原清衡の生い立ちを、調べてみたので少し紹介する。
@)清衡は、藤原北家の血筋とされる藤原経清を父、奥州の豪族、安倍頼時の娘を母として生まれた。
A)前九年の役で安倍に味方した藤原経清は、源氏に処刑される。
B)清衡の母は前九年の役で源氏と一緒に戦って勝利を収めた清原武貞の後妻となる。これによって、清衡は清原清衡と清原氏を名乗ることとなる。
C)清衡には母と武貞の間にできた家衡という弟がいたが、この家衡が、後に清衡の妻子命を奪うことになる。これが、清衡と家衡との対立の構図となり清原氏の内乱である後三年の役の始まりとなる。
D)清原は、後三年の役で、陸奥守源義家を味方に付けて、みごと家衡を破る。
E)内乱を制した清衡は、後に実父の藤原を名乗り、平泉に移りその後の奥州藤原家反映の礎を築くことになる。

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■コメント (1)

おおすみ:

…平泉藤原を滅ぼした頼朝といい、鎌倉の御霊神社に祀られている権五郎景政といい、金沢にとっては「敵」として地元では語り尽くされていますね。
公園の義家像は実物大(笑)だそうですが、藤原のほうはどうでしょう?こんなものをつくるために、私の生家跡地は横手市に用地収用されました。竹下内閣の1億円ふるさと創生資金の産物。



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2008年09月10日 08:43に投稿されたエントリーのページです。

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